活人形谷汲観音像
寺宝
活人形谷汲観音像
別名 巡礼姿観音像
(熊本県文化財指定)
浄国寺観音由来記
松本喜三郎翁は製作に十年の歳月を費やし、
明治4年正月より浅草観音境内に於いて「西国三十三ヶ所観音霊験記」の興行を行い、
大喝采を博した(尚、文楽等の壺坂霊験記は この霊験記が下敷きになっている)。
観音の化身三十三体、人物百数十体にも及ぶ大展示である。
この興行は、二年間に渡り白熱の人気を呼んだと伝えられている。
当 浄国寺に安置されている観音様は、その第三十三場面「美濃国 谷汲寺縁起」の中の一場面で、
観音様が巡礼の姿を借りて、即ち観音様の化身である人間の巡礼が、
迷っている人を導いたと言う様子として製作された(その姿から別名 巡礼姿観音とも呼ばれた)。
興業後、最初は浅草伝法院の境内に仏像(観音像)として祀られた。
後年(明治12年)功を成し熊本に帰った喜三郎翁は、
この観音様が作者にとってあまりに会心の作であった為に離れがたく、
松本家の祖先の眠る浄国寺に寄進された。
尚、先年修復された熊本市万日山(春日六丁目)の来迎院の聖観音像は翁の帰熊後製作されたもので、
最初より仏像(観音像)として造られている。
同じ作者の手によるものでも当寺の谷汲観音像とは異なった印象となり、
その点でも作者の力量とこだわりが現れている。
近年 熊本市現代美術館に於ける展示や顕彰会の方々の努力により生人形への関心が高まり、
代表作である当寺の観音様への参詣も多くなった。
しかし、傷みも目立ちはじめ、特に衣装の劣化が激しく修復の声が起こった。
今回(平成十八年)に熊本県及び熊本市、(財)文化財保護・芸術研究助成財団の助成も決定し、
来迎院聖観音像の修復も手がけられた福岡県糸島の浦仏刻所主宰仏師の浦叡學氏に依頼し修復に着手した。
衣装は傷みがひどく、現存の衣装は取り外し保存し、新たに復元新調されることとなった。
修復作業の中でその構造の緻密さ 細工の細やかさに改めて作者の力量と才能を認識させられた。
今回、修復を終えた観音像を前にして、百年以上の時を越えて、現在も生き続ける作品の持つ迫力、
そして妖艶とも言えるその美しさは驚嘆するのみである。
しかし この作品も単に美術工芸品である前に観音様として、
迷っている衆生(一般の市井の人々)を救済する菩薩として百年以上の長きに渡り我々を見守り導いてくれた事、
そのような沢山の人々の祈りの対象として祀られてきた事も我々は決して忘れる事はできない。
谷汲観音像作者 松本喜三郎
生涯
作者 松本喜三郎は文政8年(1825)熊本井出の口(現在の熊本市迎町)に油屋半兵衛の長男として産まれた。 若くして地蔵祭りの造り物に天才の片鱗を見せる。 24歳で大阪に昇り 30歳の時、難波新地で「活人形元祖松本喜三郎一座」の大看板で喝采を受ける。 その後 浅草の大興行師 新門辰五郎に招かれ上京。 「大蔵生人形」「西国三十三所霊験記」等の興行で活人形師としての不動の地位と名声を築く。 明治十二年 熊本に帰り、活躍を続けたが明治二十四年四月三十日 享年67歳の生涯を終えた。
その作風について
作者 松本喜三郎は文政8年(1825)熊本井出の口(現在の熊本市迎町)に油屋半兵衛の長男として産まれた。 若くして地蔵祭りの造り物に天才の片鱗を見せる。 24歳で大阪に昇り 30歳の時、難波新地で「活人形元祖松本喜三郎一座」の大看板で喝采を受ける。 その後 浅草の大興行師 新門辰五郎に招かれ上京。 「大蔵生人形」「西国三十三所霊験記」等の興行で活人形師としての不動の地位と名声を築く。 明治十二年 熊本に帰り、活躍を続けたが明治二十四年四月三十日 享年67歳の生涯を終えた。
再評価について
平成11年、傷みの激しい熊本市万日山の来迎院の聖観音像の修復のため 「来迎院聖観音像修復保存会」が結成され、同時に地元熊本で喜三郎翁の業績をもっと考えるべきであるとの視点より 「松本喜三郎顕彰会」(会長 島田美術館長 島田真佑氏)が発足した。 同会では現在までに2回のシンポジウム(平成11,12年) を催し翁の業績の再評価に力を注いでいる。 又、聖観音像の修復に関しても市民の善意による浄財も少しづつ寄せられ前向きに動いている。 日本では現存する作品が極めて少ないが、近年 海外(主にアメリカ)で活人形が発見されており その確認が急がれている (平成10年 スミソニアン博物館で保存状態の大変良い喜三郎翁の作品が発見された)。